吉田美月喜&常盤貴子コンビが生み出す瑞々しい母娘像
千夏役はオーディションで、昭子役はオファーだったと明かしているまつむら監督。吉田さんには出会ったその日に出演依頼をし、常盤さんには手紙を書いたといいます。
光輝役の奥平さんについて“等身大の姿を本作に刻んでいる”と記しましたが、それは吉田さんも同じ。すでにいくつかの作品での好演が話題を呼び、早くも頭角を現し始めている俳優ですが、まだまだ“これから”な若手俳優です。1シーン1シーンを懸命に生きようとする吉田さんの姿は、現在と未来のはざまでもがく千夏像にピタリと重なり合っています。彼女が千夏役を演じたいま、この役を演じられるのは彼女以外に考えられないほど。演じるテクニックというのはキャリアを積めば身につけられるのでしょう。けれども若手時代にしか表現できないものも確実にある。これからの吉田さんの俳優人生において何度も語られるであろう瞬間の連続が、本作には収められているのです。
母娘が“そこにいる”
一方、昭子役の常盤さんに関しては「さすが」の一言。母として、そして1人の女性として揺れる心情を、具体的なセリフ以上に、声や表情の質感そのもので語ってみせています。枝元萌さんが演じた舞台版の昭子はよりパワフルかつエネルギッシュな女性で、私たち観客をも力強く引っ張っていくような存在でした。
しかし常盤さんが立ち上げた昭子像は印象が違います。吉田さんが千夏を等身大で演じているように、昭子にも港町で生活する自然で強固な実在感があります。彼女ら2人が体現する母娘は、まさに“そこにいる”のです。
“分からない”という事実に向き合った先にあるもの
本作は、若年性乳がんを患った娘とその母の“ズレ”をつまびらかに描き出します。母としては愛娘の胸よりも彼女の将来のほうが大切ですが、娘本人にとっては、そう考えることは難しい。もちろん、母だって苦しいのは言うまでもありません。この“ズレ”に周囲の人々が介入することで、母娘関係はより複雑なものになっていくわけです。
筆者の好きな言葉の1つに、「愛のない理解よりも、愛のある無理解のほうがいい」といったものがあります。劇作家・鴻上尚史さんの『ピルグリム』という作品に登場するセリフです。自分以外の誰かを愛するがゆえに、相手のことを考えるがゆえに、どうしても理解できないことは多々あります。そう感じたことのあるかたは少なくないでしょう。そして理解できないからこそ、私たちは相手のことを分かろうと努めるもの。それを放棄してしまっては、他者との“ズレ”はどんどん広がっていくばかりです。
愛しているがゆえの無理解は、やがて対話を生むものだと思います。そしてその対話の先のどこかに、相互理解というものがあるのではないでしょうか。筆者はどこまでいっても男性であるため、千夏のような当事者のかたの苦しみを本質的に理解することはできません。
『あつい胸さわぎ』は、同じく男性である原作者の横山さんが演劇を通して、まつむら監督が映画を通して、この“分からない”という事実に向き合った作品だと思います。その分からなさを突き詰めた先に何があるのか。ぜひとも劇場で、たしかめてみてはいかがでしょう。
◆文筆家・折田侑駿
1990年生まれ。映画や演劇、俳優、文学、服飾、酒場など幅広くカバーし、映画の劇場パンフレットに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。https://twitter.com/yshun