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【65歳オバ記者 介護のリアル】「毒親だった」母ちゃんの介護 世話をしている時に抱いた思いとは?

オバ記者
母ちゃんは俗に言う「毒親」だったのか…昔を振り返ってみる
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ライター歴43年のベテラン、オバ記者こと野原広子(65歳)が、介護を経験して感じたリアルな日々を綴る「介護のリアル」。昨年、茨城の実家で母ちゃんを介護し、最終的には病院で看取ったオバ記者。「毒親だった」という母親の世話をしているとき、どんな思いになったのでしょうか―――。オバ記者が綴ります。

* * *

母ちゃんは毒親だったのか?

「里帰りして母ちゃんの介護を4か月した。シモの世話もした」というと、みるみる顔色が変わる人がいるんだよね。「うちの毒親に介護なんてあり得ない」と言って。

「毒親」。数年前からよく聞くよね。で、先日、知人に誘われた後楽園ホールでのプロレス観戦をしながら考えたわけ。3月に亡くなった母ちゃんは今でいう毒親だったかと。

オバ記者の母親
今年3月に亡くなった母ちゃん。写真は四十九日法要
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答えは「イエス、おお、イエス!」と迷わずだ。ここで母ちゃんのことを書き出したのは高齢になってからで、入院だの施設に入居だのとこっちが気にかけなくちゃならなくなってから。で、その前はどうだったかというと、これがかなり“毒素”の強い女だったんだわ。

元気だった時の母ちゃん。後ろに写っているのはよくバトルし合った義父
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母ちゃんに「じゃあ、殺せよ」

昭和の母親が割烹着を着た働き者、というイメージなら、まさに母ちゃんはそう。小学生の高学年の朝、うちに迎えにきた同級生とランドセルを背負って家から飛び出そうとしたら、「ヒロコ、待ってろ」と母ちゃんが大声をあげたの。

手には菜切り包丁と私の鉛筆。工場に出勤する直前のほんの数分、うちには鉛筆削り器がなかったからなんだけどね。この場面は私も覚えているけど、それは嵐の前の静けさとして。その数年後、中2の私はその菜切り包丁を母ちゃんに突き出していたんだわ。

オバ記者の母親
母ちゃんは昭和の母親象そのもの!
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細かなことは忘れたけれど、口喧嘩で怒った母ちゃんが私の頭を引っ叩いたのよ。

で、「テメエなんか生かすも殺すも親の勝手だ」と言うからカッときた私は「じゃあ、殺せよ。ほら、殺せ」と怒鳴って、菜切り包丁を母ちゃんの前に置いてキッと睨みつけたんだわ。

それきり母ちゃんが私に手をあげることはなくなったけれど、物心ついたときから気に入らないとゲンコツが飛んでくるのは当たり前でね。年子の弟は名前を呼ばれるだけで頭を抱えて防御体制よ。

「中卒で働け」と言われていた

1、2発のゲンコツだけなら、「チッ」で終わったけど、菜切り包丁事件が起きたのは、その頃から決定的に悪化していった義父との関係が原因なんだわ。私と義父がバトったときに、口先では母ちゃんは私の側に立つ。それで義父がへこんで、さらに私に攻撃が激しくなる。それが繰り返されているうちに、義父が私に「出ていけ」と最後通告をしてきたの。

「うちから高校には行かせねぇ。家を出てどっかで住み込みで働け」って。

オバ記者の母親
母ちゃんからは何度も「中卒で働け」と
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実は私、「中卒で働け」はこのとき初めてじゃないんだよね。物心ついたときから、母ちゃんからも何度か言われていたの。「お前は実の父ちゃんがいないんだから高校は行けねぇんだがんな」って。

貧農の家の次女で尋常小学校卒で奉公に出た母ちゃんからしたら、娘が自分と同じことをするのはごく自然なことだったのかもね。

小学校の低学年から母ちゃんの知り合いの子の子守りをさせられたのもそう。遊びたい盛りの子供が、血縁関係のない乳児を背中に背負わされるのは、本当に苦痛よ。背中に伝わってくる湿っぽい体温を思い出すと今でも身震いがするもの。

なのに小5の時に生まれた11歳年下の弟を背負うのはイヤじゃない。てか、可愛いくて、ずっと一緒にいたいんだよ。

介護が始まっても昔の話はしなかった

それから50年の歳月が流れて、3年前に義父と年子の弟は相次いで他界。私は母ちゃんの介護で再び枕を並べて寝るようになり、背中に背負っていた11歳年下の弟は仕事が終わると毎晩、実家に顔を出してくれる。

実家で介護している間に母ちゃんと昔の話をする時間はたっぷりあったわよ。母ちゃんから受けた“虐待”の数々をあげつらったあげく、半日放置してやってもよかったかも(笑)。

オバ記者 血圧
自分の体を守るために母ちゃんを責めるような話はしなかった
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でもそうはしなかったのは薬で抑えていた自分の血圧を上げたくなかったから。そしてその代わりにしたのが親切。毎朝、ホットタオルを作って渡し、目覚めの白湯。訪問入浴のない日に足湯を作ってやったこともある。

「どうで?」

「まさがなぁ(とてもいい)」

会話はそれだけだけど、母ちゃんは自分が望んだこと以上のことをされて満足すると同時に、引け目も出てきたのよね。

危篤状態から復活した母ちゃん
病院から自宅に戻る時の一枚。この時はほぼ危篤状態だった
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私に対する引け目。満足に介護をせずに老人ホームで死なせた姑、オシマさんに対する引け目。それが日に日に大きくなっていくのをそばにいた私は手に取るようにわかったの。

そのうち、オシマさんに対する引け目は、「あの時はしょうがなかったっぺな」と慰めてやったけど、私に対する引け目は見てみぬふり。

母ちゃんの死がすぐそこにあるのはわかっていても、帳消しになんかしてやるかという恨みがましさが残っていて、結局、昔の話はしなかった。

「あの時はああするしかなかった」と言うに違いない

なんでしなかったか、答えは明快。母ちゃんは自分が毒親だったなんて微塵も思っていないし、もし私が「虐待をされた」と言っても間違いなく理解しない。「あの時はああするしかなかった」と言うに違いないんだわ。

「とし江さんがどんな苦労をしたか、知ってっぺ」と、これは母ちゃんの過去を知っている人、ほぼ全員に言われること。

オバ記者の母親とオバ記者の弟
11歳年下の弟と散歩中の母ちゃん
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私の実父が32才で脳溢血で亡くなった時、町の人は「娘(私のこと)は女郎屋にでも売られるんじゃないか」と話していたと、これは私が30過ぎてから聞いた話だ。

親が過酷な生き方を強いられたら、その子供だって無傷なわけがない。それをひとつひとつつまみ上げて白黒つけたところで、どうするの。そんなわけで、私は各論では母ちゃんを毒親認定はするものの、総論では「あの時はああするしかなかった」でまとめていたんだと思う。

これは私だけじゃないと思うけれど、毒親の後ろには悲しい現実がどんと居座っているのよ。それを知っていた私は、今夜のおかずは何にするかとか、親戚の誰がどうしたとか、どうでもいい話をして、痛い話には触れないで、できるだけの親切をした。そうしているうちに母娘の時間はタイムオーバーになった。

オバ記者と母親
毒母、そして毒娘だった?
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まあ、母ちゃんが毒親なら、過度な介護で心理的負担をかけた私も負けず劣らずの毒娘だったのよね。キレて怒鳴ったこともあったけど、たいがいは我ながらよくやるよと笑っちゃうくらい母ちゃんのわがままをきいて、手を撫でてやり、色とりどりの料理を並べた。それを負担に思っていることは、「はあ(もう)そうたに作るなよ」と何度も言われているからわかっている。それでもやめなかったのは、母ちゃんに対する当て付けだ。それでよかったと今も思っている。

◆ライター・オバ記者(野原広子)

オバ記者イラスト
オバ記者ことライターの野原広子
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1957年生まれ、茨城県出身。体当たり取材が人気のライター。これまで、さまざまなダイエット企画にチャレンジしたほか、富士登山、AKB48なりきりや、『キングオブコント』に出場したことも。バラエティー番組『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ系)に出演したこともある。昨年10月、自らのダイエット経験について綴った『まんがでもわかる人生ダイエット図鑑 で、やせたの?』を出版。

【304】葬儀から3か月、“介護疲れ”で体のあちこちに異変

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