ライター歴43年のベテラン、オバ記者こと野原広子(64歳)が、“アラ還”で感じたニュースな日々を綴る。昨年、4か月間、茨城の実家で93歳「母ちゃん」の介護をしたオバ記者。自宅介護を始めた当初は良好だった母娘関係は、要介護5の母ちゃんが回復していくとともに崩れていったといいます。何があったのでしょうか。オバ記者が振り返ります。
* * *
自宅介護4か月での2つの失敗
前回、私は4か月間、自宅介護をした93歳の母親とのかかわり方に2つ失敗したと書いた。
1つは自宅介護を引き受けたとき、担当医から「これ以上病院でできる治療はありません」と言われ、すっかり看取りのつもりになっていたこと。どのくらいの期間のことかわからないけれど、せいぜい1~2か月くらい?と思っていたんだと思う。だから覚悟らしい覚悟はほとんどなかったのよね。
2つ目の失敗は、日に日に回復していった母親を、「母ちゃん」と呼んだこと。それまで甥、姪の視点で「おばちゃん」と言っていたのに、ふたりで暮らすうちに昔の母娘に戻ってしまった。そのおかげで母親は見違えるほどシャンとしたのはよかったけど、同時に私に指示だしをするようになるとまでは想像しなかった。
「玄関の電気、消せ」
「洗濯物、取り込め」
「わきゃねえから(短時間でできるから)ナマスを漬けろ」
目についたことを次から次に言葉にする母親を、ああ、ここまで回復したんだなと喜んだらいいんだろうけどね。私、そんなに人間ができていないんでね。
3か月で切り上げていたら…
さらに言えば、その2つの失敗の傷をさらに深くしたのが、見切りどきを間違えたこと。もし、シモの世話つきの自宅介護を3か月で切り上げていたら、老健(介護老人保健施設)にあずけた今、「自宅介護は二度とイヤ。絶対にムリ」とまでは思わなかったかも。私の介護期間は4か月だから、わずか1か月の違いじゃないかと言われそうだけど、その1か月が大きかったの。
子供なしでバツイチになった私は、子育てをしていない。人ひとりの命を自分ひとりで預かったことはない。記者としてなら家族5人の介護をした人に取材したこともあるし、舅、姑の介護を押し付けられたあげく、いざ相続になると「あんたは他人」とポイ捨てされた長男の嫁の嘆きも何人からか聞いた。
でも、しょせん取材は取材。他人事なのよね。いざ自分の身に降りかかると、ケアマネジャーさんが相談役なのはすぐにわかったけれど、訪問看護師とヘルパーの役割分担すらピンときていなかったの。
「シモの世話」のときもふたりで喜んでいた
「ところてん、食いてえ」
「トイレ」
「腹減った」
最初の1か月、母親の口から出るのはこの3つくらいで、訪問入浴でお風呂に入れてもらうと気持ちのいい顔をする。「どした? 気持ちいいか?」と聞くと、「まさがなぁ」とにっこり。そうそう。私はこの顔が見たくて東京の暮らしをいったん止めて実家に帰ってきたのだとその時、思ったっけ。
ベッドから起き上がり、自分の足でおりてポータブルトイレに座れるようになってしばらくたった2か月目。これも共依存というのかしら。朝から晩まで頭の中は母親のことだけで、母親が「出たどぉ」と言うと「どれどれ」となんのためらいもなく、ポータブルトイレの中の“成果物“を見ていたの。
自分のモノ以外をしみじみと見たのは飼い猫のモノくらいで、人間のは初めてだ。しかも排泄を促す薬を飲んでいるので、自然のニオイではなく強烈。
それなのに、「良かったなぁ」「うん、まどまってんな(ちゃんと形になっているね)」とふたりで喜んでいる。それをなんかおかしいと遠くでは思うけれど、ま、無我夢中だから一瞬の思いはどんどん流れて消えていくんだわ。私と母親の間に蜜月というのがあったとしたらこの時期で、2か月から3か月の半ばまでだった。