【村上弘明インタビュー】「故郷の被災」「大腸がんの手術」を経て、古希目前で事務所から独立「人生は一度きり。不安を逃げ道にして温かい場所に埋もれていたくない」
『必殺仕事人』『八丁堀の七人』『銭形平次』『柳生十兵衛七番勝負』など、1980年代半ば以降、時代劇をはじめサスペンスや刑事ものなど、ドラマといえばこの人あり、という活躍を見せてきた村上弘明(68才)。4本の主演作を掛け持ちするほどの多忙を極めてきたが昨年、15年在籍した事務所から独立。新たな道に挑むという。古希を目前にどんな心境の変化があったのか──。
残された時間で新たな挑戦をしたい
穏やかな笑みをたたえてやってきた村上。長年の時代劇出演で培われたのだろうか、スッと伸びた背筋が185cmの身長をより高くみせる。68才とは思えない引き締まった体躯は、毎日欠かさず行っているという1時間のウオーキングとランニングの賜物だろう。
そんな村上は、2024年8月末にオスカープロモーションを退社。同年12月から新たな事務所・HONESTと業務提携し、個人でもさまざまな仕事を開拓していきたいと意気込む。
「これまでは、会社と専属契約を結ぶことで、与えられた状況に身を任せてきました。しかし世の中はどんどん変わっています。撮影方法や配信方法も多様化し、低予算でもおもしろい作品が作られるようになりました。ぼくも委ねるだけではなく、自分で考え、内容重視で出演作を選んだり、自ら制作に携わったりしたい。なんせ人生は一度きりですし、私も若くない。残された時間で新たな挑戦をしたいと思ったんです」
東日本大震災の衝撃。世の中は変わると実感
振り返れば、それまでの役者人生は無我夢中に全力疾走する日々だった。NHKの大河ドラマをはじめ、数々の作品で主役を務めてきた村上には、睡眠すら充分にとれる時間がなかったという。
「20代後半から50代半ばくらいまで、ぼくは“浦島太郎状態”でした。多いときは4作品同時に主役を務めさせてもらい、東京、名古屋、京都を1日で行き来して撮影していました。毎日必死で、世の中の流れを把握できないほど。次々と主役をいただけるなんて、とてもありがたいことなのですが、プレッシャーも相当なものでした。台本を覚えたり、役についての理解を深めるために調べ物をしたり、殺陣などの訓練をしたり……。舞台に上がる前の準備に相当な時間とエネルギーを費やしました。読みたい本も読めず、自分がスカスカになっていくような感じはありましたね」
そんな村上を癒したのが家族と、故郷である岩手県陸前高田市の豊かな自然だった。
「どんなに忙しくても年に一度は家族と旅行できるよう、妻が予定を組んでくれたんです。毎日何かしら失敗をして落ち込んで帰っても、家で子供たちの笑顔を見ると気分が一新されました。家族には本当に感謝しています。
夏には故郷に帰り、海で泳ぐのもストレス解消になりましたね。ぼくにとって故郷は、エネルギーを注入してくれる場所だったんです」
それだけに2011年、村上が54才のときに起こった東日本大震災のショックは大きかったという。
「震災後、すぐにでも故郷に戻りたかったのですが、道路が不通となり、辿り着けたのは震災から3週間がたった4月初めのこと。車で行くと坂道の上から故郷の海が見える場所があって、いつもはそこを通るたびにホッとするのですが、このときばかりは、そこからの風景がぼくを奈落の底に落としました。眼前に広がっていたのは破壊されてがれきと化し、変わり果てた故郷の姿。信じられない光景で、思わず車から降りてその場に立ち尽くしました。涙があふれて止まりませんでした」
実家の1階は被災したが、幸い両親は無事で、村上の部屋がある2階も震災前のままだった。
「ぼくは毎年12月、岩手県でチャリティーラジオ番組を続けていて、2010年の12月23日も実家に泊まっていたんです。部屋がそのときのままだったせいもあり、“カーテンを開けたら、震災前の風景に戻っているかもしれない”。そんな奇跡を願ったりもしました」
世の中は変わる──それを肌で実感した出来事だったという。
「被災地からの帰り、気仙沼で撮影をしてきたという写真家の篠山紀信さんにお会いしました。そのとき篠山さんから、“これは撮らないといけない、撮れるのは村上さんしかいないのでは?”と言われたんです。地元の人間が撮るからこそ、震災の真実を伝えられるのではと……。
ぼくはそれまで、田舎者であることにコンプレックスを持っていました。喫茶店すらない漁師町ですからね。大学時代は方言が恥ずかしくて、会話を控えていたくらいです。でも、どんなに忙しくても、故郷の豊かな自然とおいしい食べ物に触れると、癒される。それに、東京にいようが京都にいようが、故郷への慕情が尽きないんです。いまでは“田舎者である”ことこそ自分の魅力であり、岩手に生まれたことを誇りに思っています」
自分を育て、作り上げてくれた故郷への愛が村上に、
(震災で見て感じたことを映像化したい──)
という思いを湧き上がらせていった。