ライフ

女優・秋吉久美子が明かす、いまだ埋まらない亡き母への想い――「母にとって私は最期まで“期待外れ”だった」≪独占インタビュー『母を語る』前編≫

母の期待通りには生きられなかった

秋吉2才の頃。両親と(本人提供)
写真4枚

振り返ると、秋吉はまさ子さんからの期待に、いつも応えられなかったという。

「私は幼い頃から優等生で、母の自慢でした。母は私を信頼してくれていましたし、私にとって母は“親友”であり、大切な人、守るべき人でした。母も私を長女というより“長男”として頼っていたように思います」

まさ子さんは11人きょうだいの真ん中に生まれた。家が貧しく、高等教育が受けられなかったため、自分が叶えられなかった夢である大学進学を、優等生だった秋吉に期待していた。ところが秋吉は高校卒業後、母の意に反して女優の道を進んでしまう。

「母にしてみたら、そんな不確かな職業ではなく、大学に行って確実で誠実な人生を送ってほしかった。それなのに私は、理想の娘になれませんでした。

母は戦後の女性の地位向上を誇らしく思っていて、“清貧”“平凡”“高潔”を信条としていました。婦人参政権運動を主導し、自身も政治家となった故・市川房枝さんを尊敬していましたから、私にもそういう女性か、小学校の教師になってほしかったようです。

ですから、意に沿わない仕事に就いた私を、母はずっと怒っていました。なんせ、私の主演映画を1本しか見てくれなかったくらいですから。母にしてみれば、私がどれだけ有名になろうが、女優である必要はなかったんです」

まさ子さんは、女優という仕事の大変さを理解しようという気がなかった。たとえ徹夜で東京から福島に駆けつけようが、医師の回診中に寝ているようでは”情けない”――というわけだ。母にそう思われていること、そして、女優になったことで母に受け入れてもらえなくなったことが、秋吉は辛かったという。

(後編に続く)

◆女優・秋吉久美子
1954年、静岡県生まれ。1972年『旅の重さ』(松竹)で映画初主演。1974年公開の『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』(いずれも日活)に主演し、脚光を浴びる。その後も、1977年に『八甲田山』(東宝)、1988年に『異人たちとの夏』(松竹)、1995年に『深い河』(東宝)などで好演。ブルーリボン賞主演女優賞や日本アカデミー賞優秀主演女優賞などを獲得。2009年に早稲田大学大学院公共経営研究科修了。作家・下重暁子さんとの特別対談をまとめた近著『母を葬る』(新潮社)にも“家族という名の呪縛”について語っている。https://akiyoshikumiko.jp/

 

取材・文/上村久留美