
人生のお手本、頼れる存在、心の拠り所、ライバル、反面教師、依存対象、毒、そして同じ“女”――。娘にとって母との関係は、一言では表せないほど複雑であり、その存在は、良きにつけ悪しきにつけ娘の人生を左右する。それはきっと“あの著名人”も同じ――。女優・秋吉久美子(70才)の独占告白、後編。
母からの厳しい質問に答えあぐねる日々

20年ほど前、秋吉の母・まさ子さん(当時72才)は、すい臓の腫瘍のせいで漏れた胆汁を正常に戻すための手術を、地元・福島で行った後、東京に上京して秋吉と一緒に暮らすことになった。週に1度の通院が必要で、そのためには東京の方が便利だったからだ。この頃は、温泉旅行に行くなど束の間の穏やかな時間が過ごせたという。
「母は1~2年で福島に帰れると思っていて、無邪気に東京生活を楽しむものですから、真実を告げずにその様子を見ているのはとても切なかったですね」
東京で暮らし始めて2か月。“そのとき”は突如訪れた。大量に下血し、緊急入院することになったのだ。車いすでの生活を余儀なくされると、目に見えてまさ子さんの元気がなくなっていった。
「2度目の入院で母は、自分の病気が重いものではないか、もう長くないのかもしれないと実感したようでした。元気になってもらいたいからと、車いすで外に連れ出し、かわいがっていた愛犬と引き合わせても、ぼう然としていたのか反応が薄くて‥‥。いまとなっては、絶望していたんだと思います」
しかしまさ子さんは、医師や妹、ほかの人々に、自分の病名を聞くことはなかった。
「医師から、“何でも聞いてください”と言われても、母は“何もありません”と答える。ただ、私と二人きりのときにだけ、“私って重い病気なの?”と聞いてくるんです。“いまのところは何とも言えないけれど、人間はいつか死ぬんだから、何十年か先の死と向き合って考えてみるチャンスなんじゃない?”と、うまく答えたつもりが、ワッと泣かれてしまいました。でも、“大丈夫よ、重い病気じゃないわ”と答えてしまえば、“それなら何故、入院しているの?”となりますよね」
どうして自分にだけ、毎日試すような質問ばかりするのか。どう答えたら絶望から救えたのか――。
「医師に聞いて真実を言われるのは怖い、妹に聞いて泣かれるのは困る。でも優等生の私なら、嘘を言うなどしてうまく答え、安心させてくれると期待していたのだと思います。厳しい試練でした」
たとえ母の夢を叶えても――

まさ子さんはその後も秋吉に、「焼かれたら私の魂はどうなるの?」「死んでしまったら私はなくなるの?」などの質問を続けたという。
「私は母を安心させる答えを言ってあげられませんでした。こういった問いに対応できなかったことに、悔いが残りました」
死ぬのが怖いと言い続けたまさ子さんだが、最期はなんとか自分で答えを見つけた。
「母は“私は星になる”と言った1週間後、息を引き取りました」
東京での再入院から2か月後のことだ。葬儀は秋吉が喪主として仕切った。生前、自分の郷里である静岡で葬儀をしてほしいと言っていたまさ子さんの遺志を継ぎ、東京で諸々の手続き終えた後、遺体を静岡まで運んだ。遺影選びをはじめ、細部の打合せまで秋吉が取り仕切った葬儀は、母の11人きょうだいの孫、ひ孫ら100人以上が参列する盛大なものとなった。
それでも「これで葬(おく)れた」という達成感はなく、心に穴があいたような喪失感はぬぐえなかったという。
「母の死に真剣に向き合った結果、自分には学びが足りないと感じ、53才のときに大学院へ進学。福祉について学び、公共経営修士を取得しました。結果的に、母が望んでいた学びの場で勉強ができたわけですが、それでも、“これで母を葬れた”とは思えませんでした」
死ぬときは“途上”でいい

そんな母への想いが変わってきたのは、秋吉が古希を迎えてから。
「父が76才、母が72才で亡くなっていますから、私も70才になって、最期を迎える心の準備を逆算して考えるようになりました。そして、母の死を通して自分なりの答えも見えてきました。母は満足のいく最期ではなく、途上で生を終えたことが無念のようでしたが、私たちは聖人ではない。キリストでも釈迦でもない。人生を達観せず、途上のまま死んでもいいのではないか、ふと、そう思えるようになったんです。円熟や達観に向かって悩む心の痛み――それこそが人生ではないでしょうか」
20年間埋められなかった母への想いも、途上でいい。達観したいという思いで生きたとして、その途上で生を終えても仕方がない。
「死ぬときは“志半ば”でいいんじゃないでしょうか。母は自らの死を通して、私に大きな課題を投げかけてくれ、そのおかげで私も自分なりの答えに辿り着けました。子を育てるだけでなく、看取らせることもまた、親の務めなんでしょうね」
母の年齢に近づき、そう思えるようになったと、秋吉はやわらかな笑顔を見せた。
◆女優・秋吉久美子
1954年、静岡県生まれ。1972年『旅の重さ』(松竹)で映画初主演。1974年公開の『赤ちょうちん』『妹』『バージンブルース』(いずれも日活)に主演し、脚光を浴びる。その後も、1977年に『八甲田山』(東宝)、1988年に『異人たちとの夏』(松竹)、1995年に『深い河』(東宝)などで好演。ブルーリボン賞主演女優賞や日本アカデミー賞優秀主演女優賞などを獲得。2009年に早稲田大学大学院公共経営研究科修了。作家・下重暁子さんとの特別対談をまとめた近著『母を葬る』(新潮社)にも“家族という名の呪縛”について語っている。https://akiyoshikumiko.jp/
取材・文/上村久留美