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人生のお手本、頼れる存在、ライバル、反面教師、依存対象、そして同じ“女”――。娘にとって母との関係は、一言では表せないほど複雑であり、その存在は、良きにつけ悪しきにつけ娘の人生を左右する。それはきっと“あの著名人”も同じ――。歌手・小林幸子(71才)の独占告白、前編。
家族に愛された控えめな母

「母は控えめで余計なことは一切言わない人でした。でも人見知りというわけではなく、聞き上手で穏やかな人でした」(小林幸子・以下同)
24年前、79才で急逝した母・イツさんのことを、小林はこう振り返る。
小林の実家は新潟県で精肉店を営んでいた。イツさんは商売の傍ら、いつも笑顔でお客さんたちの話に耳を傾けていたという。
「母は家でも笑顔を絶やさず、不機嫌な姿を見たことがありません。体形はすらりとしていて、足も細くてまっすぐ。若い頃は友人たちから『いいなぁ、イツさんの足はまっすぐで』なんて、うらやましがれたと聞きました。実は私もね、母に似て足がまっすぐなの。70才を過ぎたいまもよ(笑い)。顔も母親似だと思っています」
そう言って笑う小林からは母への思慕があふれる。
そんなイツさんを見染めたのが、小林の父・喜代照(きよてる)さんだった。2人とも新潟県に生まれ、イツさんは喜代照さんが住む隣村で育ったという。
「父は大正9(1920)年生まれ、母は大正11(1922)年生まれ。ふたりが年頃だった当時は第二次世界大戦の最中ですから、恋愛もままならなかったでしょう。父は出征前、『無事に戻れたら、イツさんと結婚する』といって戦地に向かったそうです」
約束通り、終戦後に新潟に戻り、その願いを叶えたというわけだ。
「わが両親ながらロマンチックな話だと思いませんか?(笑い)母は肌のきめも細かくて真っ白。いわゆるもち肌で、父はよく自慢していました。私も子供心に誇らしかったですね。お化粧もしていないのにきれいだなぁって」
イツさんの小さな鏡台の引き出しには、白粉などの化粧品は入っておらず、ただ赤い口紅と、その紅で赤く染まったガーゼだけが入っていたという。
「あるとき、鏡台の前に座る母を見ていたら、赤い紅を唇に引いた後、それをガーゼでふき取っていました。当時は、せっかく塗ったのになぜ拭き取ってしまうのだろうと思いましたが、拭きとった後に淡く残る色と香りだけで充分ということだったのでしょう」
イツさんの控えめさを象徴するエピソードだ。
時代を見据え、女手一つで精肉店を開業

普段は夫・喜代照さんを立てて控えめなイツさんだったが、芯が強く、ここぞというときの行動力は目を見張るものがあったという。というのも、家業の精肉店を開業したのは、イツさんだったのだ。
「私は小林家の末っ子・三女で、昭和28(1953)年、父が33才、母が31才のときに生まれました。父は当時、鉄工所に勤めていたのですが、私が2才になったとき、『これからは肉を好んで食べる人が増えるから、精肉店をやろうと思うんだけど、始めてもいいかしら』と、父に相談したそうです。新潟県は日本海沿いにありますから、鮮魚店は多かったのですが、精肉店はほとんどありませんでした。母としては、戦後、日本もようやく落ち着いてきて、これからは肉食の時代になると直感したらしいんです。父が『やってごらん』と賛成すると、母はそのとき住んでいた自宅の一部を改築して、すぐに商売を始めたそうです」
精肉部門は食肉加工の職人に手伝ってもらっていたが、総菜コーナーはイツさんひとりで切り盛りしていたそう。コロッケやメンチカツ、ポテトサラダなどの総菜を手作りして販売していて、開業から半年もすると、店の前には買い物客の列が――その光景は鉄工所帰りの喜代照さんを驚かせた。
「これは自分も手伝わなければ‥‥」
と思った喜代照さんはほどなく会社を辞め、夫婦2人で店を切り盛りするようになった。
「働き手が2人になっても、朝の6時からじゃがいもをふかすなど、早朝から仕込みをしなければ間に合いませんでした。当時の私はまだ2才でしたから、家事や育児に仕事と、母は毎日大忙し。私は店の前に置かれた乳母車の中でお客さまをお出迎えしていました。小さな看板娘でしたね(笑い)。おかげで人見知りしない子供に育ちました。小学生になると姉たちと一緒に、揚げ物を竹の皮で包んでお客さまに渡すなど、店の手伝いもしました。母からはお手伝いを通して、料理や掃除の仕方などを学びました。上手にできるとほめてもくれるうえ、お駄賃までもらえるからうれしくて。もっとほめられるようにがんばろうと思いました」
イツさんは子供をほめるばかりで、叱ることはなかったという。しかし――
「私は一度だけ、自分の失敗を人のせいにするような嘘をついたことがありました。そのときは母が私の耳元で、『どんなにごまかそうとしてもだめ、閻魔さまはすべてお見通しなのよ』と囁いたんです。強い言葉で𠮟られるよりも、そう耳元でささやかれた方が、どれほど怖かったか。いまでも忘れられないくらいですから、当時は心から反省したものです。母はほめ上手なだけでなく、叱り上手でもありましたね」
(後編に続く)
◆歌手・小林幸子
1953年、新潟県生まれ。1964年、10才のときに『ウソツキ鴎』で歌手デビュー。1979年『おもいで酒』が大ヒットを記録し、日本レコード大賞「最優秀歌唱賞」をはじめとする数々の歌唱賞を受賞。同年「第30回NHK紅白歌合戦」にて紅白初出場を果たし、以降34回出場する。『とまり木』『もしかして』『ふたたびの』『雪椿』など数多くの代表曲を誇る。2006年「紺綬褒章」受章し、2013年には、「新潟県民栄誉賞」を受賞。舞台、テレビドラマ、バラエティーなど多方面で活躍し、2024年には芸能生活60周年を迎えた。著書に『ラスボスの伝言 小林幸子の「幸」を招く20のルール』(小学館)など。
取材・文/上村久留美