最期まで許してくれず、突然逝った母

『ウソツキ鴎』で華々しいデビューを飾った小林だったが、その後はヒットに恵まれなかった。デビュー5年後の15才のときには、デビュー時の新潟地震の影響やスーパーマーケットの台頭などもあって、実家の精肉店が閉店。そこで小林は2DKのマンションに引っ越すと、両親と姉たちを東京へ呼び寄せた。家族と一緒に暮らすため、一層仕事に力を入れたが、鳴かず飛ばずの日々‥‥。それが10年も続いた。
「姉たちはまだ学生でしたから、両親もなんとか東京で再起を図ろうとしたのですが、父親は当時50才。なかなか仕事が見つかりませんでした」
キャバレーやナイトクラブのステージで歌う小林を助けたいと、イツさんも近所のビジネスホテルにパートタイマーとして勤務し、ベッドメイキングの仕事に汗を流したこともあった。だが、持病のリウマチが悪化すると、それを続けるのも難しくなった。
「歌手を辞めたいと思ったこともありましたが、だからといって歌う以外にできることはありません。何より、自分からなりたいといって選んだ道ですから、そう簡単には辞められない。いろいろな葛藤はありましたが、そばに家族がいてくれたからがんばって続けられたのだと思います」
そしてデビューから15年、25才のときに『おもいで酒』がレコード売り上げ200万枚を超える大ヒットを記録。この頃には姉たちも独立して経済的に余裕が出るようになり、両親に旅行をプレゼントできるようにもなった。
晩年はぜんそくを患い、「死ぬときは空気のいいところで」というイツさんの願いに応えて、静岡に家を購入した。
「『おもいで酒』でいろいろな賞をいただき、その後、歌手としてある程度認められるようになりました。そんなとき母に、『まだ私が歌手になったことに反対してる?』と聞いたんです。すると母はこう即答しました。『うん、いまだって反対だよ』って――。母は、結婚して子供に恵まれ、家族で穏やかに暮らすことこそ、女の幸せだと信じて疑わない人でしたから、そういう意味で、私は母の意に反した娘なんです」
一度言ったことは絶対曲げない、雪国に育った女性らしい芯の強さは、こうしたところでも発揮され、その後何度同じ質問をしても、イツさんの答えは変わらなかったという。
「2000年、母が78才のときに温泉旅行に行ったのですが、そのときも同じ質問をしました。ところが、このときの返事はいつもと少し違いました。『反対』と笑顔で答えつつ、こう付け加えたんです。『これまでたくさん親孝行をしてくれてありがとう。私はもう充分だから、幸子、これからは自分の幸せだけ考えて』と――本当はいちばんの応援者だったんです」
小林にこの言葉を残した数か月後、イツさんは心筋梗塞で急逝した。
「じゃ、さよなら」と手を振って去るような、あまりにもあっけない最期だった。
「いろいろなことがありましたが、思い出すのは笑顔の母。私たち姉妹に、『いつも微笑んでいなさい。そうすればあなたを嫌う人はいないから』と言っていたのですが、母自身、その言葉通りに生きた人だったと思います。ホームで泣きくずれた母の反対を押し切ってまで進んだこの道だから、どんなつらいことがあっても乗り越えてみせます。これからも、母の言葉をかみしめて、笑顔を大切に生きていきたいと思っています」
◆歌手・小林幸子
1953年、新潟県生まれ。1964年、10才のときに『ウソツキ鴎』で歌手デビュー。1979年『おもいで酒』が大ヒットを記録し、日本レコード大賞「最優秀歌唱賞」をはじめとする数々の歌唱賞を受賞。同年「第30回NHK紅白歌合戦」にて紅白初出場を果たし、以降34回出場する。『とまり木』『もしかして』『ふたたびの』『雪椿』など数多くの代表曲を誇る。2006年「紺綬褒章」受章し、2013年には、「新潟県民栄誉賞」を受賞。舞台、テレビドラマ、バラエティーなど多方面で活躍し、2024年には芸能生活60周年を迎えた。著書に『ラスボスの伝言 小林幸子の「幸」を招く20のルール』(小学館)など。
取材・文/上村久留美