
ライター歴43年のベテラン、オバ記者こと野原広子(64歳)が、介護を経験して感じたリアルな日々を綴る。昨年4か月間、茨城の実家で93歳「母ちゃん」を介護。その母ちゃんが3月7日、入院していた病院で亡くなった。母親を看取った今、オバ記者は何を思うのか――。
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母ちゃんと交わした最後の言葉
1月8日に老健(介護老人保健施設)に会いに行ったら「家に帰んだ」とごねたあげく、窓越し、電話越しに「テメなんか死んじめ」と悪タレをつかれたので、「そら、順番が違うべな」と言うと、「オラ、100までいぎっから」と息巻かれ、気のない声で、「がんばってねー」とピラピラ手を振った私。母ちゃんはそれを半泣きのような顔で見送っていたっけ。思えばあれが母ちゃんと交わした最後の言葉だったのよね。

弟はその1か月後にご飯も薬ものどを通らなくなって入院した母ちゃんと会っている。顔を合わせたら「なんだ、来たのが」と言ったきりで、以前のように家に帰りたいとも言わず、シュンとしていたそうな。そして入院手続きを終えた弟に「帰んのが」と言ったのが、弟が聞いた最後の声だったそう。
意識がなくなり“最後の別れ”

入院するとみるみる体力がなくなり、それでも「とし江さーん。誕生日は?」と聞かれると答えていたそうだけど、そのうち声をかけても返って来なくなり、やがて意識がなくなった母ちゃん。その段階で会わせてもらって最後の別れの機会をつくっていただいた。
母の死に対する思いがマーブル模様
3月7日に亡くなった母ちゃんが家に戻ってきて、12日に通夜、13日に告別式を終えた今、もし誰かに今の心境は?とマイクを向けられたらなんて答えるかしら。

実の父を3歳で亡くしている私にとって親といえば母ちゃん。その人がこの世から消えた。もう二度と会えない。それがどんなことか、実はピンとこないのよ。てか、母ちゃんの死に対する思いがマーブル模様のように変わるんだわ。
悲しいかと聞かれたらそれは悲しいんだよ。でもそれだけじゃない。肩の荷が降りたというか、どこかでホッとしているんだよね。この3年間で入院5回、いや、6回? 老健にだって4回出入りしている。

その合間に私と弟で4か月の自宅介護。明けても暮れても母ちゃんだったんだわ。だから、ああ、もう母ちゃんのことで気持ちが乱されたりすることは金輪際ないんだと思うと、目の前の視界が広がったみたい。
ヘルパーのオガワラさんが「介護をした人は葬式で泣きません。泣くのは何もしなかった人」と言っていたけど、私の場合ほんとにそうだったわ。
出棺のときにヤバくなった瞬間
通夜と告別式で、久しぶりに会う親戚の顔を見ると、ただうれしくてついつい長話になる。私もそうだけど、親戚のみんながちゃんと老けていていてね。そうか、これから私らも人生の後半戦で、やがては骨になるのよねって、それがすごくリアルに、自然に受け止められるんだわ。

だけどそんな私が、ヤバくなったのは出棺のとき。腰を曲げて杖にすがって参列してくれた母ちゃんと同世代の友だちが「とし江さ~ん、さよなら~」と、見送ってくれたのよ。同じ時代を生きた人の振り絞るような声がせつなくてね。今でも耳の奥に残って離れないのよ。

母ちゃんは最後までシモの世話をした私を、私が望むストレートな「ありがとう」と言う言葉でねぎらってくれなかったけど、自宅介護をする前の、眉間に深い縦じまを刻んだ顔であの世に送らなかったのは、私的によかったなと思っている。
◆ライター・オバ記者(野原広子)

1957年生まれ、茨城県出身。体当たり取材が人気のライター。これまで、さまざまなダイエット企画にチャレンジしたほか、富士登山、AKB48なりきりや、『キングオブコント』に出場したことも。バラエティー番組『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ系)に出演したこともある。昨年10月、自らのダイエット経験について綴った『まんがでもわかる人生ダイエット図鑑 で、やせたの?』を出版。
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