ライター歴43年のベテラン、オバ記者こと野原広子(65歳)が、介護を経験して感じたリアルな日々を綴る。昨年、茨城の実家で母ちゃんの介護したオバ記者。その母ちゃんが亡くなって約3か月、思い出したのは要介護5だった母ちゃんを“奇跡の復活”に導いてくれたヘルパーOさんのことでした。
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実家の茨城に足が向かなくなった
「身近な人を亡くすと人は変わります。必ず変わります」と断言したのは敬愛してやまない解剖学者の養老孟司先生だけど、ほんとにそうだわ。母ちゃんの四十九日が終わったら、なんか急に茨城が遠くなってしまったの。
母ちゃんがいない家に行っても仕方ないという気持ちと、母ちゃんと枕を並べて寝ていた日々を思い出したくないという思いが入り混じって、足が向かなくなっちゃった。
茨城とはしばらく距離を置きたいんだよ。そのためにはできるだけ遠くに行きたい。東京から離れたいと思ってネットをいじっていたら、JALの「どこかにマイル」で北九州行きの航空券が当たったの。北九州といえば、旧知のネットニュース編集者・中川淳一郎さんが佐賀の唐津市に住んでいる!
唐津に行ったら別の扉が開いた
こういう時の私の行動力はわれながら惚れ惚れするわ。気がつくと、中川さんの案内で唐津城に登ったり、青い海、うまい魚…。他人とは思えないような人たちと出会って夢のような3泊4日の旅をし終えたら、またまたひとつ別の扉が開いたんだね。母ちゃんの自宅介護の日々を支えてくれた人たちの顔が、次々に浮かんできたの。
昨夏、絶望的に見えた母ちゃん
その筆頭はなんといっても介護会社を経営しつつ、自らヘルパーとして活動しているOさんよ。彼女がいなかったら母ちゃんの残された時間はもっと少なかったと、私は信じて疑わないもの。なぜか、という話は後にして、とにかく当時の私は無知もいいところ。
去年の7月、どうも母ちゃんが長くないらしいと担当医の口ぶりから察した私は自宅介護をすると決めたまではいいとして、実は介護って何するの?ってレベル。
食事を用意して排泄の手伝いをして、母ちゃんの体調が急変したら救急車を呼ぶって感じ? 退院にあたって病院の会議室で、担当医と看護師さん、ケアマネジャーのUさん(彼女にもめちゃお世話になった)と、あと誰がいたっけ。要するにカンファレンスという母ちゃんのお世話に関する引継ぎをしたんだけど、私が担当医に聞いたのは、「母ちゃんがどうなったら病院に電話をするのか?」の一点だけ。
それだけ夏の盛りに冬の上着を着て病院のベッドに寝せられている母ちゃんは絶望的に見えたんだわ。
友人の紹介でやってきたヘルパーOさん
もっと絶望的だったのは8月2日に退院してきた要介護5の母ちゃんを介護するのは、私と弟夫婦の3人だけという現実。急に自宅で介護することを決めたから「お盆過ぎないとヘルパーさんの手配がつかないんですよ」とケアマネのUさんがいうのはもっともだとしても、さて、この意識がはっきりしないバアさまをどうする。
訪問看護師さんがやってきて、テキパキと”こんな時はこうする”と教えてくれたけれど、不安でたまらない。
そんな時に幼なじみのE子が、「友だちのヘルパーさん、紹介すっぺか?」と電話してくれたら、さっそく挨拶にきてくれたのがOさんだったの。そしてベッドに寝ている母ちゃんに「とし江さん、Oです。明日から来ますからよろしくお願いしますね」と、よく通る声で声をかけたら、なんと母ちゃんがOさんの顔を見てにっこり笑ったのよ。これが退院して3日目のこと。
「出来るだけのことはします」という言葉の力強いこと。聞けば長年、ヘルパーとして働いてきただけじゃなくて、施設に入っていた叔母を引き取って102才で天寿を全うするまで介護をしたんですって。