ライター歴43年のベテラン、オバ記者こと野原広子(65歳)が、介護を経験して感じたリアルな日々を綴る「介護のリアル」。昨年、茨城の実家で母ちゃんを介護し、最終的には病院で看取ったオバ記者。「毒親だった」という母親の世話をしているとき、どんな思いになったのでしょうか―――。オバ記者が綴ります。
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母ちゃんは毒親だったのか?
「里帰りして母ちゃんの介護を4か月した。シモの世話もした」というと、みるみる顔色が変わる人がいるんだよね。「うちの毒親に介護なんてあり得ない」と言って。
「毒親」。数年前からよく聞くよね。で、先日、知人に誘われた後楽園ホールでのプロレス観戦をしながら考えたわけ。3月に亡くなった母ちゃんは今でいう毒親だったかと。
答えは「イエス、おお、イエス!」と迷わずだ。ここで母ちゃんのことを書き出したのは高齢になってからで、入院だの施設に入居だのとこっちが気にかけなくちゃならなくなってから。で、その前はどうだったかというと、これがかなり“毒素”の強い女だったんだわ。
母ちゃんに「じゃあ、殺せよ」
昭和の母親が割烹着を着た働き者、というイメージなら、まさに母ちゃんはそう。小学生の高学年の朝、うちに迎えにきた同級生とランドセルを背負って家から飛び出そうとしたら、「ヒロコ、待ってろ」と母ちゃんが大声をあげたの。
手には菜切り包丁と私の鉛筆。工場に出勤する直前のほんの数分、うちには鉛筆削り器がなかったからなんだけどね。この場面は私も覚えているけど、それは嵐の前の静けさとして。その数年後、中2の私はその菜切り包丁を母ちゃんに突き出していたんだわ。
細かなことは忘れたけれど、口喧嘩で怒った母ちゃんが私の頭を引っ叩いたのよ。
で、「テメエなんか生かすも殺すも親の勝手だ」と言うからカッときた私は「じゃあ、殺せよ。ほら、殺せ」と怒鳴って、菜切り包丁を母ちゃんの前に置いてキッと睨みつけたんだわ。
それきり母ちゃんが私に手をあげることはなくなったけれど、物心ついたときから気に入らないとゲンコツが飛んでくるのは当たり前でね。年子の弟は名前を呼ばれるだけで頭を抱えて防御体制よ。