「中卒で働け」と言われていた
1、2発のゲンコツだけなら、「チッ」で終わったけど、菜切り包丁事件が起きたのは、その頃から決定的に悪化していった義父との関係が原因なんだわ。私と義父がバトったときに、口先では母ちゃんは私の側に立つ。それで義父がへこんで、さらに私に攻撃が激しくなる。それが繰り返されているうちに、義父が私に「出ていけ」と最後通告をしてきたの。
「うちから高校には行かせねぇ。家を出てどっかで住み込みで働け」って。
実は私、「中卒で働け」はこのとき初めてじゃないんだよね。物心ついたときから、母ちゃんからも何度か言われていたの。「お前は実の父ちゃんがいないんだから高校は行けねぇんだがんな」って。
貧農の家の次女で尋常小学校卒で奉公に出た母ちゃんからしたら、娘が自分と同じことをするのはごく自然なことだったのかもね。
小学校の低学年から母ちゃんの知り合いの子の子守りをさせられたのもそう。遊びたい盛りの子供が、血縁関係のない乳児を背中に背負わされるのは、本当に苦痛よ。背中に伝わってくる湿っぽい体温を思い出すと今でも身震いがするもの。
なのに小5の時に生まれた11歳年下の弟を背負うのはイヤじゃない。てか、可愛いくて、ずっと一緒にいたいんだよ。
介護が始まっても昔の話はしなかった
それから50年の歳月が流れて、3年前に義父と年子の弟は相次いで他界。私は母ちゃんの介護で再び枕を並べて寝るようになり、背中に背負っていた11歳年下の弟は仕事が終わると毎晩、実家に顔を出してくれる。
実家で介護している間に母ちゃんと昔の話をする時間はたっぷりあったわよ。母ちゃんから受けた“虐待”の数々をあげつらったあげく、半日放置してやってもよかったかも(笑)。
でもそうはしなかったのは薬で抑えていた自分の血圧を上げたくなかったから。そしてその代わりにしたのが親切。毎朝、ホットタオルを作って渡し、目覚めの白湯。訪問入浴のない日に足湯を作ってやったこともある。
「どうで?」
「まさがなぁ(とてもいい)」
会話はそれだけだけど、母ちゃんは自分が望んだこと以上のことをされて満足すると同時に、引け目も出てきたのよね。
私に対する引け目。満足に介護をせずに老人ホームで死なせた姑、オシマさんに対する引け目。それが日に日に大きくなっていくのをそばにいた私は手に取るようにわかったの。
そのうち、オシマさんに対する引け目は、「あの時はしょうがなかったっぺな」と慰めてやったけど、私に対する引け目は見てみぬふり。
母ちゃんの死がすぐそこにあるのはわかっていても、帳消しになんかしてやるかという恨みがましさが残っていて、結局、昔の話はしなかった。