
俳優の杉咲花さん(26歳)が主演を務めた映画『市子』が12月8日より公開中です。『川辺市⼦のために』という演劇作品を映画化した本作は、あるひとりの秘密を抱えた女性の実像に迫るもの。作劇、演出、俳優陣の演技のどれもが素晴らしい、大変な力作に仕上がっています。今回は、本作の見どころや杉咲さんの演技について、映画や演劇に詳しいライターの折田侑駿さんが解説します。
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話題の演劇作品を映画化
本作は、『僕たちは変わらない朝を迎える』(2021年)や『散歩時間 その日を待ちながら』(2022年)などの戸田彬弘監督の最新作。戸田監督自身が主宰する劇団チーズtheaterの旗揚げ公演作品であり、再演を繰り返すほどの人気作を、自ら映画化したものです。

演劇界における話題性の高さから、つい「人気作」などと記してしまいましたが、愉快なエンターテインメント作品とは真逆に位置する作品です。それはこの映画も同じ。もちろん、巧妙に練られた物語はスリリングであり、ある種のエンターテインメント性を持っているのは間違いありません。けれども描かれるのは、あまりにも痛ましい、ひとりの女性の半生です。
胸が締め付けられる――などといった生ぬるい読後感では済まない、私たち観客も無傷ではいられない作品なのです。
市子とは何者なのか?
3年間も一緒に暮らしてきたにも関わらず、長谷川義則の前から忽然と姿を消した川辺市子(杉咲)。しかもそれは、長谷川が彼女にプロポーズをした翌日のことです。
やがて途方に暮れている長谷川のもとに、ひとりの刑事が現れます。そして彼は市子が写った写真を差し出し、「この女性は誰なのでしょう?」とおかしなことを尋ねるのです。

こうして長谷川は、市子の昔の友人や幼馴染み、学生時代の同級生など、彼女と関わりのあった人々のもとを訪れることに。しだいに彼は、かつて市子が違う名前を名乗っていたことを知ります。
関係者の発言ごとに異なる市子像。彼女の足跡を追っていくうちに、長谷川は市子の壮絶な過去と半生を知ることになるのです――。
作品の強度を高める、若葉竜也らの力演
本作の主演は杉咲さんであり、彼女が演じるタイトルロール・市子が主人公の作品です。けれども特殊な構成になっていて、周囲の登場人物たちの視点から市子像が浮かび上がってくる作りになっています。
つまり、作品の強度は脇を固める俳優陣の力によって大きく左右される。ハードな物語を立体化させるべく、素晴らしい俳優たちが適所に配されています。

本作における最重要人物のひとり、市子の恋人である長谷川を演じるのは若葉竜也さんです。若葉さんといえば、いまもっとも厚い期待と信頼を集めるバイプレイヤーではないでしょうか。杉咲さんと共演した朝ドラ『おちょやん』(2020年-2021年/NHK総合)などのドラマ作品にも多く出演していますが、初主演映画『街の上で』(2021年)をはじめ、『前科者』(2022年)、今年は『愛にイナズマ』など、近年はとくに「映画俳優」として作家性の強い話題作には必ずといっていいほど彼の存在があるように感じるほど。
この『市子』もそのひとつです。長谷川は本作における狂言回し的な役どころであり、彼とともに私たち観客は市子という人間を知っていくことになります。若葉さんのリアクションの一つひとつが、市子の半生の壮絶さを物語り、私たちの心を、魂を揺さぶる。この映画は若葉さんの力演があってこそ高次元で成立しているのです。

そして、宇野祥平さんが市子を探す刑事を、中村ゆりさんが市子の母親を演じているほか、森永悠希さん、倉悠貴さん、中田青渚さん、石川瑠華さん、大浦千佳さん、渡辺大知さんらが市子の人生に関わる人々をそれぞれ妙演。ハードな物語を支えています。


このような座組の中心に立ち、主役として作品を背負っているのが杉咲さんなのです。
杉咲花の生涯の代表作のひとつに
すでに記しているように、市子の人生はあまりにも壮絶なものです。安易な感情移入など許してはくれない。ミステリー要素を多分に含んでいる作品のため、物語の詳細への言及は避けておきます。ただいえるのは、これを体現してみせた杉咲さんの俳優としての覚悟と力に敬服し、『市子』は彼女の代表作のひとつになることは間違いないだろうということです。

映画でもドラマでも主演を務める機会が続き、いまや若手世代を代表する俳優となった杉咲さん。子役から活動をスタートさせたこともあり、すでに豊富なキャリアを築き上げています。彼女がどれだけ芸達者な俳優なのかは、主演を務めた朝ドラ『おちょやん』で十分に証明したことでしょう。同作で杉咲さんが演じたのは、昭和の名優・浪花千栄子さんをモデルとした人物。彼女のあまりの話芸の素晴らしさに、朝から何度も唸ったものです。
『おちょやん』以外にも、杉咲さんの代表作はもちろんあります。けれども『市子』は彼女の生涯における代表作になるはずだと思うのです。
いくつもの顔
主人公・市子はいくつもの顔を持つ人物。というより、いくつもの顔を持たなければ生きられなかった人物です。彼女のアイデンティティはつねに不安定で、それでも“生”にしがみついてきた。このような役を演じていると、いつしか心身に支障をきたし、俳優本人が壊れてしまうのではないか……。いや、演じる者によっては壊れてしまうのだと思います。

物語は現在と過去を往来しながら進んでいきます。どういった順番で撮影したのかまでは分かりませんが、本作はあまりにも複雑な構造であるため、俳優の感情よりも撮影の合理性を優先させたのだろうと思います。そうなれば、監督の演出や撮影後の編集の力が重要視されるのは当然ですが、やはりその素材となる杉咲さんの緻密な演技設計が何よりも物を言うはず。
私たちは市子の本当の心の内までは知ることができません。ですがシーンごとに大きく動いているのは分かる。杉咲さんの内面と外面をズラす演技によって、市子という人物はより複雑な存在として映るのです。
公式のコメントで杉咲さんは「市子の、人生に関わった去年の夏。撮影を共にした皆さまと、精根尽き果てるまで心血を注いだことを忘れられません。その日々は猛烈な痛みを伴いながら、胸が燃えるほどあついあついものでした」と述べています。並々ならぬ覚悟で撮影に臨んだことがここから分かります。
役を演じるという行為は、技量さえあれば成立するものではありません。ひとりの人間の人生を背負う覚悟がなければならないはず。ひとりの女性の壮絶な人生を生きた本作は、間違いなく杉咲さんの生涯の代表作のひとつになるはずです。
無傷でいてはいけない
本作について、“私たち観客も無傷ではいられない”と先述しました。いや、正確には、『市子』を観て無傷でいてはいけないと思うのです。

これは、愛する人にも真実を告げられないほどの秘密を抱えて生きる女性の物語で、フィクションです。私たちはすぐに他者のことを分かった気になり、決めつけてしまいがちではないでしょうか。ネット上にはそういった言動が散見されます。
しかし誰にだって蓋をしておきたい過去や、絶対に口外できない秘密というものがあるはず。他者が傷ついていることを敏感に察し、自らも一緒に傷を負えるように生きたいと思うばかりです。たとえそれが何の救いにならなかったとしても。
◆文筆家・折田侑駿さん

1990年生まれ。映画や演劇、俳優、文学、服飾、酒場など幅広くカバーし、映画の劇場パンフレットに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。https://twitter.com/yshun