杉咲花の生涯の代表作のひとつに
すでに記しているように、市子の人生はあまりにも壮絶なものです。安易な感情移入など許してはくれない。ミステリー要素を多分に含んでいる作品のため、物語の詳細への言及は避けておきます。ただいえるのは、これを体現してみせた杉咲さんの俳優としての覚悟と力に敬服し、『市子』は彼女の代表作のひとつになることは間違いないだろうということです。
映画でもドラマでも主演を務める機会が続き、いまや若手世代を代表する俳優となった杉咲さん。子役から活動をスタートさせたこともあり、すでに豊富なキャリアを築き上げています。彼女がどれだけ芸達者な俳優なのかは、主演を務めた朝ドラ『おちょやん』で十分に証明したことでしょう。同作で杉咲さんが演じたのは、昭和の名優・浪花千栄子さんをモデルとした人物。彼女のあまりの話芸の素晴らしさに、朝から何度も唸ったものです。
『おちょやん』以外にも、杉咲さんの代表作はもちろんあります。けれども『市子』は彼女の生涯における代表作になるはずだと思うのです。
いくつもの顔
主人公・市子はいくつもの顔を持つ人物。というより、いくつもの顔を持たなければ生きられなかった人物です。彼女のアイデンティティはつねに不安定で、それでも“生”にしがみついてきた。このような役を演じていると、いつしか心身に支障をきたし、俳優本人が壊れてしまうのではないか……。いや、演じる者によっては壊れてしまうのだと思います。
物語は現在と過去を往来しながら進んでいきます。どういった順番で撮影したのかまでは分かりませんが、本作はあまりにも複雑な構造であるため、俳優の感情よりも撮影の合理性を優先させたのだろうと思います。そうなれば、監督の演出や撮影後の編集の力が重要視されるのは当然ですが、やはりその素材となる杉咲さんの緻密な演技設計が何よりも物を言うはず。
私たちは市子の本当の心の内までは知ることができません。ですがシーンごとに大きく動いているのは分かる。杉咲さんの内面と外面をズラす演技によって、市子という人物はより複雑な存在として映るのです。
公式のコメントで杉咲さんは「市子の、人生に関わった去年の夏。撮影を共にした皆さまと、精根尽き果てるまで心血を注いだことを忘れられません。その日々は猛烈な痛みを伴いながら、胸が燃えるほどあついあついものでした」と述べています。並々ならぬ覚悟で撮影に臨んだことがここから分かります。
役を演じるという行為は、技量さえあれば成立するものではありません。ひとりの人間の人生を背負う覚悟がなければならないはず。ひとりの女性の壮絶な人生を生きた本作は、間違いなく杉咲さんの生涯の代表作のひとつになるはずです。