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《突然寝たきりに》元おニャン子新田恵利が語る亡き母の壮絶介護「“がんばる”と言わなくなり“命の限界”を感じた」【独占インタビュー『母を語る』後編】

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人生のお手本、頼れる存在、ライバル、反面教師、そして同じ“女”――。娘にとって母との関係は、一言では表せないほど複雑であり、その存在は、良きにつけ悪しきにつけ娘の人生を左右する。それはきっと“あの著名人”も同じ――。タレント・新田恵利(56才)の独占告白、後編。

突然寝たきりになった母

2019年11月、車いすでのんびり散歩を楽しむ新田(左)と母・ひで子さん
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新田の母・ひで子さんの介護が始まったのは2014年10月。ひで子さんが85才、新田が46才のときだった。父はその29年前に肝硬変で他界していたこともあり、母の世話を含めた家事等は主に、新田夫妻と3才年上の兄が分担して担うこととなる。

「1997年に結婚した私は2000年、神奈川県の逗子に二世帯住宅を建て、母と夫の3人で暮らしていました。ところが突然、母が腰の痛みを訴え、そのまま立てなくなってしまったんです。3週間前まで普通に歩いていたのに……。母は52才で骨粗しょう症と診断されて以来、何度か頸椎の圧迫骨折による入院を経験していましたから、私たちもそのときは大事にとらえていませんでした。ところが、そのまま寝たきりとなり、寝返りをうつのさえ難しい状態になったんです」(新田恵利・以下同)

診断は、骨粗しょう症による腰椎の圧迫骨折。ひで子さんの希望で入院したものの、その病院では満足のいく治療をしてもらえず、病状が悪化。わずか3週間の入院で、あろうことか「せん妄」まで発症してしまった(「せん妄」は急性の脳機能障害で、一時的な精神機能の障害や認知機能の低下が起こる)。

新田には10才年上の姉と3才年上の兄がいるが、取り急ぎ兄にも同居してもらい、慌てて自宅介護に切り替えることにした。が、今度は肺気腫で再入院。病状が落ち着き、退院できたのは年が明けてからだった。

「1度目の入院の後は、『お正月までには歩けるようになる』なんて、明るく話していたのですが、再度入院してしまったので、じゃあ今度は私の誕生日の『3月までに歩けるようになる』と約束してくれて、リハビリをがんばってくれました。

母のこうした明るく楽天的な性格に、介護する私たちは本当に救われました。いまは無理でも、『3か月後には家族で食事に行こう』など、少しだけ先の目標を立て、それを目指してがんばるというやり方もよかったようです」

理学療法士とも仲よくなってリハビリに励むと、ほどなく寝返りがうてるなど、少し体が動かせるようになった。すると、持ち前のポジティブさから、「リハビリ専門の病院に入院したい」とひで子さんから提案してきたという。

そして、40日のリハビリ入院を経て帰宅すると、ベッドから車いすへ移ってひとりでトイレに行き、車いすから便座へ自力で移れるようになった。要介護4から3になり、周囲からも驚かれた。

「一般に寝たきりになると本人も家族も諦めてしまうことが多く、そこからよくなることは珍しいそうです。でも、何才であっても鍛えれば筋肉はつく。母はそれを身をもって証明してくれました」

母・ひで子さんを自宅介護することになり、新田自らDIYをして環境に整えた
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逃げ場のない母の悲しみを知り…

理想的な母子関係、順調な介護――のように見えるが、けんかもしたという。

「私たち夫婦と母は、32才のときからいまの家で同居していたのですが、ささいなことで言い争いになると、母が『出ていく!』と言って、家出をするんです。私の家なので、『出ていけ』とは言えなかったんでしょうね(笑い)。家出といっても、行き先は母の親友の家と決まっていて、ひと晩もすれば帰ってくるんですけど――」

しかし、車いす生活になったひで子さんには、もう家出ができない。

「だからけんかをしないようにしようと思っていても、私も人間ですから、イライラして母につらく当たってしまうこともありました。たとえば、少しでも食べてほしいからと時間をかけて食事の支度をしているのに、『今日は食べたくない』と言われると、どうしても腹が立って、きつい言葉も出てしまう。

でも、介護が始まってから母は、私がきついことを言っても言い返さなくなりました。代わりに肩を震わせながら大粒の涙を流す……。そんな母の姿を目にしたとき、“この人はもうここから逃げられないんだから追い詰めてはいけない!”と思うようになりました。

それに、腹が立つのは私の気持ちにゆとりがないせいでもあります。母から同じことを言われても、こちらに余裕があれば、“わかった、今日はそんな気分なのね”と受け止められる。すべては“私の気持ち次第”と気づきました」

頭にきたときは黙って部屋を出て、夫や愛犬に慰めてもらい、なんでも完璧にこなそうとせず、できる範囲でと割り切る。それが在宅介護に必要な気の持ちようだと悟ったという。

2015年、リハビリ入院を終えて。明るい人柄で病院の職員からも愛されたひで子さん
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「世界一幸せ」と笑った母のように…

介護生活では、ひで子さんの感謝を忘れない態度にも救われたという。

「母は昔からよく、『ありがとうとごめんなさいが言えない人は人間失格』と言っていて、実際、私たちに何度も『ありがとう』と言ってくれました。

仕事で疲れたときには正直、介護を重荷に感じることもありました。でも、母からのお礼の言葉があると救われるんです。あるとき、『私は世界一幸せ』とまで言ってくれたことがありました。体を思うように動かせない不自由な毎日。苦痛のはずです。それなのに、笑顔でそんなことを言う。いまいる環境の中で幸せを見つける天才でしたね」

感謝にあふれた穏やかな介護の日々――ところが在宅介護5年目の2019年、ひで子さんは腰椎の圧迫骨折によって再び寝たきりに。これにより認知症がすすんでしまったのか、「がんばる」という言葉を口にしなくなった。新田は、食が細くなり、単語しか発せなくなったひで子さんに“命の限界”を感じ始めたという。

「介護が長くなると、“こうした生活がいつまで続くのか”とつらくなるといいますが、私には、“母はもうこの先長くない”と感じたときの方がつらかったですね」

そして2021年3月、ひで子さんは92才でこの世を去った。

「父が急逝したとき、私は反抗期で父とあまり会話もしていなかったんです。そのときの後悔もあって、母には親孝行しようと思っていました。100人いれば100通りの介護があって、振り返れば私にもいろいろ問題点はあったと思うのですが、自分のした介護に悔いはないと思っています」

とはいえ、寂しさはぬぐえないという。

「介護に関する後悔や、母を失った悲しみは乗り越えましたが、寂しさはどうしても埋められません。新たまねぎが出回る季節になると、母が好きだったなあと思い、酢の物をみると、嚥下機能の衰えた母に細かく切って食べさせたなぁ、などと思い出します」

自分で作るいなり寿司や五目寿司の味にも母は生きている――ときにはそれがなんとも切ない……。しかし、母の見事な生き方は自分も受け継ぎたい、と言う。

「いつか自分が介護をされるようになったら、母のように明るく感謝を伝えられる人でありたいですね」

そう言って新田は笑顔を見せた。

◆タレント・新田恵利
1968年、埼玉県生まれ。1985年、バラエティー番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)のアシスタントとして、アイドルグループ「おニャン子クラブ」が結成され、その立ち上げメンバーとなる。デビュー曲『セーラー服を脱がさないで』ではフロントメンバーに選ばれるなど人気を誇る。1986年1月1日には、シングル『冬のオペラグラス』でソロデビュー。オリコン初登場1位となり、30万枚以上の売り上げを記録するが、9月に「おニャン子クラブ」を卒業。以後、タレント、女優、エッセイストとして活躍。1997年に結婚。現在は介護の経験をもとに講演などを行っており、2023年には淑徳大学総合福祉学部の客員教授に就任。著書に『悔いなし介護』(主婦の友社)。https://www.eri-nitta.com/

取材・文/上村久留美

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