58歳の母が大阪からニューヨークにやってきた
萬田:私がやっぱり母親の存在って大きいなと身に沁みたのは、ニューヨークで出産した息子の子守りのために、英語もしゃべれない母親がアメリカまで来てくれたときかな。
神津:考えたらすごいことよね。
萬田:私が29歳で息子を出産した当時、母親はパートナーとの関係にも出産にも猛反対で“もう勝手にしい”と連絡も途絶えていて。だけど、生後まもない息子を置いて2週間ほど日本へ帰ることになったら母親の顔が浮かんで、“申し訳ないけど、こっちへ来てくれない?”って電話をして頼ったの。そうしたら母は58歳で初めてパスポートを取って、すぐ大阪からやって来てくれた。
神津:それも、おひとりで。
萬田:JFK空港までは迎えに行きましたよ。ところが待てど暮らせど母親が出てこない。どうしたのか心配していたら、お食い初め用に日本から持ち込んだ笹がイミグレーション(入国審査)で大麻に間違われて、どこかへ連れて行かれてたんだって(笑い)。
その笹でお食い初めした息子の写真が残っていますけど、バァバにはあのへんから頭が上がらなくなった。
神津:私も幼い頃から祖母が身近にいる環境で育ったけれど、近頃はおじいちゃんやおばあちゃんと住まなくなって、核家族で友達みたいな仲良し親子がいいような風潮もあるでしょう。私たちの感覚よりも近い間柄で、親が子のことを知りすぎているんじゃないかと感じる。
萬田:へぇ~、最近はそうなの?
神津:恋愛事情も学校で今日あったことも、親がみんな知っている。批判したいのではなく“いるだけでいい”という関係性になれない親子が多いような気がして。私も萬田さんも、子供第一のいい母でいようなんて気はあまりないでしょう?
萬田:災害とか命に危険が迫るような事態が起きたら弱い方を助けるけど、私はどちらかというと優先順位は子供より彼でしたね。
神津:ウチの母も“パパ、パパ”とは言わないけど、そこが軸で子供なんて付属品というか。でも萬田さんもママも、母親なんてそれでいいのよ。その証に今までちゃんと生きてきたんだから。あのママだっていつもハチャメチャで飲んだくれていても、ちゃんと生きたんだもの。
萬田:ウチは最後に母親と同居することになったけど、リッキーは「もしも久子ちゃんと別れても、お母さんはもらっていくよ」と言ってた。母親の手料理も好んでいたし、慕っていたのね。
神津:とても仲良かったものね。
萬田:母親がリッキーを詠んだ俳句にも、なかなかいいのがあったのよ。
神津:お母さんは短歌や俳句もたしなまれて、遊びに行くと“ちょっと詠んだるか?”って。乙女な甘い恋の句が多かったような気がする。
萬田:母親もある意味ロマンチストだったんでしょうね。昭和7年生まれで戦後に少女時代を過ごして、ロマンチックに生きたくても現実はそうはいかなかったから。雑誌の裏表紙にあるキャラメルの写真に手を伸ばして何度も口に運んでは、食べていたんですって。
神津 食べた気分を味わったのね。
萬田:物がない時代で想像力が豊かだったのよね。はーちゃんの本にメイコさんの引き出しは便箋や葉書など、中原淳一さんの描いた大きな目をした美しい女の子でいっぱいだったとあって、そうだろうなって。少女だったウチの母親も中原さんの世界でときめいていたと思うんだ。
こうしていろいろ話しながら母親を思い出すと、なんかね……。
神津:うん、亡くしてからの方が母親って身近に感じられるものなのね。
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構成/渡部美也 撮影/浅野剛 ヘアメイク/黒田啓蔵
※女性セブン2025年4月10日号