
人生のお手本、頼れる存在、ライバル、反面教師、依存対象、そして同じ“女”――。娘にとって母との関係は、一言では表せないほど複雑であり、その存在は、良きにつけ悪しきにつけ娘の人生を左右する。それはきっと“あの著名人”も同じ――。俳優・秋川リサ(73才)の独占告白、後編(前編はこちら)。
母子の縁を切りたいと思ったことも

母・千代子さんの代わりに秋川の世話をしてくれた祖母・勝子さんが他界したのは、秋川が21才のとき。秋川の結婚が決まり、結納を済ませた直後のことだった。
「当時祖母は入院していたのですが、手術室に向かう前に、『私はたぶん死ぬと思う。心残りは、私が育て間違えた千代子を残して逝くこと。本当に申し訳ない』といったんです。そのときは、何のことかピンときませんでしたが、後にこの言葉の意味を知ることになりました」
勝子さんの死後、千代子さんは新婚である秋川の家に毎日のように電話をしてきて、「寂しい。このままでは死んでしまう」と泣きつくようになった。電話に出るのも苦痛だったが、何とかやり過ごしているうちに、結婚生活が先に破綻。その後、秋川は千代子さんと再び同居することになった。26才のときだった。
「マミーのことをよく見ていたはずなのに、男性を見る目が養われなかったようで‥‥。離婚後友人から、私が男性に“包容力のある父親像”を求めすぎているかもしれない言われ、ハッとしました」
一度でいい、本当の父親に会わない限り、男性に対してあらぬ理想像を抱き続けそうだと思った秋川は、あらゆる手を尽くして父親を探し出し、30才のときについに対面することになった。場所は、フランスのパリだった。
「父は当時60才。ノルウェーに住んでいたのですが、パリまで来てくれました。もちろん期待は大きかったですよ。ところが実際に会ってみると、その容姿も立ち居振る舞いも、長年思い描いていた理想の父とは大違い。しかも、会った途端の第一声が『What do you want?(何がほしいんだ)』だったんです‥‥。あぁ、この人と一緒に暮らさなくてよかったと思いましたね」
理想を砕かれ傷心していた秋川にとって、追い打ちをかけるような出来事が待っていた。
「パリから帰国して成田空港に到着するや、母が待ち構えていたんです。いつもは私が仕事でどこに行こうが、迎えに来たことがなかったので驚きましたね。ところが母の手には請求書が握られていて、『あなたがいない間、これだけ生活費がかかりました』と言うんです。たぶん、私を父に取られたと思ったのでしょう。娘がもし日本に帰ってこなかったら自分の生活費はどうなるんだと、不安が募って腹を立てているようでした」
そのとき秋川は、心の底から「親と縁を切りたい」と思ったという。
貯金を使い果たした上、日記には罵詈雑言が‥‥

秋川は32才で2度目の結婚をし、2人の子供を授かったものの、その人とも40才のときに離婚。その後は、千代子さんと子供たち、家族4人の比較的平穏な生活が続いた。
「子供たちが小さかった頃は、マミーが面倒を見てくれたおかげで、仕事に専念できました。ところが、娘が大学に入学し、子育てがひと段落すると、『私もそろそろ自由にさせていただきます。来月からは彼と暮らして、幸せな老後を楽しませていただきます』と宣言し、家を出ていったんです」
千代子さん、78才のときのことだ。あれほど、「寂しい、そばにいてほしい」と秋川に執着し、交友関係にまで口を出してきた母の変わり身の早さに驚いたものの、「幸せに暮らしてね」と快く送り出した。
しかしその生活も束の間、千代子さんは3年半で出戻ってきた。
「お相手は4才年上のかたでしたが、マミーへの嫉妬や束縛がひどく、耐え切れなかったようでした。でも、詳しいことはよくわかりません。というのも、戻ってきたマミーは認知症を発症していたのです」
秋川の家に出戻ってきてからわずか半年で、病状は要介護3にまで進んだ。当初は娘と協力しながら在宅介護でがんばったが、仕事も忙しく、徘徊癖のある母の介護は並大抵のことではなく、2年で限界を迎えた。施設に入居させることを考え、千代子さんの荷物や通帳の整理を始めると、驚くべき事実が判明した。
「母の荷物には、大量のブラントバッグに服、アクセサリー、香水瓶などがありました。私は普段、Tシャツにジーパンで暮らしていたのですが、母は私が稼いだお金を管理する名目で自由に使っていたようです。私名義の通帳の残金がほぼゼロになっていて呆然としましたね。家が一軒買えるくらいの貯金はあると思っていたのですが・・・・」
男に貸したまま忘れてしまったのか、それとも詐欺にでもあったのか――家計簿を見れば何かわかるかもしれないと思い、保存されていたノートを開いたのだが、そこに書かれていた内容を見て、再び愕然とした。
「それは母が50代後半から20年以上にわたって記した日記で、家族への罵詈雑言が綴られていました。特に私に対する不平不満が多く、『私の面倒を見ているからって偉そうに。子供なんて生むんじゃなかった』などと書かれていて‥‥。このとき、祖母の最後の言葉の意味が身に染みてわかりました」
怒ったり悲しんだりという感情よりも先に、笑いがこみ上げてきたという。
「とにかく施設に入れるお金がないことがわかったので、何とかしなければと逆に奮起しましたね」
それでも私にはふさわしい母だった

日記を読んで以来、母への怒りや悲しみに悩まされたものの、それでも見捨てられなかった。秋川は手厚く介護をしてくれる介護施設を探し回り、ようやく見つけて入居させると、多額の費用を工面し続けた。
「あるとき施設を訪ねると、介護福祉士さんから誕生日にプレゼントされたアイドルグループ『嵐』の写真集を大事そうに抱えていました。何才になっても男性が好きなんだなと、呆れるよりも感心してしまいました(笑い)。私はいま73才。マミーが彼氏を作って出ていったのが78才。私にはすでにそんな情熱はありませんよ。最近では、マミーのように男に翻弄される人生を送ってみたかった、なんて思うことさえあります」
「自由になりたい」と言い続けてきた千代子さんは、認知症になってからがいちばん自由に過ごせていたという。千代子さんは89才で亡くなるまで、施設で穏やかに暮らし、家族に見送られて静かに逝った。
「マミーを一言で表すと“最高の反面教師”。彼女のおかげで落ち込む暇もなく元気でいられたし、何が起こっても開き直れる強さと、自立するための知恵も身につきました。7年におよぶ介護の大変さから、自分の老後をどうするか考え、子供たちに迷惑をかけないよう備えるようにもなりました。認知症についても、死を恐れなくなれるから、ある意味怖い病気ではないのかも、と思えるようになりましたしね。それもこれも全部、マミーのおかげ。とはいえ、『来世でもあなたを産みたい』と言われたら、ご辞退させてもらいますけど(笑い)」
一見すると、親に翻弄された人生。しかし、「私にはマミーが“合っていた”。こうして生きるのが私の運命だったの」と笑う秋川からは、母への恨みや憎しみなど微塵も感じられなかった。
◆モデル 秋川リサ
1952 年、東京生まれ。俳優・タレント・ビーズ作家としても活躍。’67年、15才でモデルとして活動を始め、翌年、資生堂のサマーキャンペーンでCMデビュー。雑誌『anan』のレギュラーモデルや、総合化学メーカー『帝人』の専属モデルとして人気を集め、デザイナーの故・三宅一生さんのニューヨーク・コレクションや、故・高田賢三さんのパリ・コレクションにも参加。その後、ドラマや映画、舞台にも出演。’01年には、ビーズ刺繍作家としてビーズアートの教室を開設。主な著書に『母の日記』(NOVA出版)、『秋川リサの子育てはいつだって現在進行形』(鎌倉書房)、『秋川リサのビーズワーク』(日本ヴォーグ社)、『60歳。だからなんなの』(さくら舎)など多数。
取材・文/上村久留美