ライフ

タレント・西村知美が18年間抱いていた母への誤解が解け――「家族だから話さなくてもいいはありえない」≪独占インタビュー『母を語る』後編≫

写真3枚

人生のお手本、頼れる存在、ライバル、反面教師、そして同じ“女”――。娘にとって母との関係は、一言では表せないほど複雑であり、その存在は、良きにつけ悪しきにつけ娘の人生を左右する。それはきっと“あの著名人”も同じ――。タレント・西村知美(54才)の独占告白、前編。

母・綾子さん(写真右)と旅先で。子供の頃のことなどをゆっくり話すのが、いまは楽しいという。
写真3枚

母となり“母”を知った

仕事やひとり暮らしをするようになり、大人としての苦労や責任を実感することで、母・綾子さん(81才)への思いは少しずつ変わっていった。それでも、反抗期を引きずったまま上京したせいで、綾子さんとじっくり話す機会もないまま時間がたってしまったという。転機が訪れたのは、西村が待望の長女を授かり、母になったときだ。32才になっていた。

「臨月と産休の期間、父にお手伝いをお願いしたかったのですが、父は料理ができません。それで母に『東京に来て2か月ほど手伝ってほしい』とお願いしたところ、ふたつ返事で上京してくれました。これまでつれない態度をとってきたのに、ありがたかったですね」

一方で、母と一緒に暮らし、長い時間を過ごすのは東京に出てきてからは初めてのこと。不安もあったという。

「高校生の頃から、東京と山口で離れて暮らし、それまで母とはほとんど話したことがありませんでした。それで大丈夫かな‥‥と。でも少しずつ、『あのとき、どうしてこうだったの?』という話ができるように。すると、夜早く寝てしまうのは早朝に起きて近所の掃除をしていたから、ということがわかりました。料理が苦手だと言っていたのは、控えめな性格だったから。母は謙遜していたんです。振り返ってみれば、私の誕生会ではパンケーキを焼いてチョコペンで絵を描いてデコレーションしてくれたり、外食する前日にはコース料理のマナーを練習するため、フルコースを作ってくれたりしていました。そもそも私は好き嫌いが多くて、食べられないものが多かったんです。それで母の料理はおいしくないと思い込んでしまっていた。母はちゃんと料理を作ってくれていたのに――。母とじっくり話すことで、私は自分が勝手な思い込みをし、誤解していたことに気づけました」

綾子さんと子供の頃の話ができるようになり、こんな質問もしたという。
「反抗的だった私をお母さんはどんな風に思っていたの?」
これに対し、綾子さんは驚いたような顔をして、
「え? そうだったの? 気づかなかった。言われてみればあなたは父親っ子だったわね。ごめんね、お母さん、役に立てなくて」
と、謝ってくれたという。

「私の反抗的な態度に気づかなかった、なんてことは絶対にありえません。でも母はあえてこういう言い方をしてくれました。母なりの気遣いかもしれませんし、悲しかった、辛かったといったことは言いたくなかったのかもしれません」

綾子さんの本心がわからないものの、それ以上は聞かないまま、また時間を重ねることになる。

「ドレスを着たい」という母・綾子さん(右から2人目)の願いを叶え、家族写真を撮影した。
写真3枚

話さなくてもわかりあえるは大間違い

家族といえども、いや家族だからこそ、きちんと話しをして、言葉で伝えないといけない――改めてそう思える出来事が起きたのは、西村の父・省吾さんが、胃がんで亡くなった’19年のこと。

その数か月前、「これが最後かもしれない」と思った西村は両親を東京に呼び寄せ、一緒にさまざまな場所へ出かけたという。西村の目的はもうひとつあった。それはかねて母から聞いていた、「結婚式が和装だったから、一生に一度、ドレスを着たい」という願いを叶えること。父が元気なうちに実現してあげたかったのだ。

「ちょうど桜が満開の頃でした。桜並木近くのフォトスタジオに予約を入れ、そこで、母にウエディングドレスを、父にタキシードを着せて写真を撮ろうと思ったんです。このサプライズ計画には、普段だったら嫌がりそうな父も協力的でした。本当は照れ臭かったかもしれませんが、母の願いを叶えることでそれまでの感謝の気持ちを伝えたかったのだと思います」

綾子さんは、このサプライズにとても驚き、喜んでくれたという。
「恥ずかしがるかと思ったらとてもうれしそうで‥‥。母には意外と乙女チックなところがあるのだと、そのとき初めて知りました(笑い)」

幸せな家族でのひととき‥‥。しかしそれから程なく、省吾さんは亡くなった。82才だった。

「喜ぶ母を見て父は満足したのか、結局最後まで、『ありがとう』の言葉を母に贈りませんでした。父の死後、母がポツリと『お父さん、何も言わなかったな』と言っていたのがとても心に残りました」

育ってきた時代背景もあるだろうが、西村の両親は言葉で思いを伝え合わなかった‥‥。

「でも、父はたしかに母に感謝していたんです。サプライズの件もそうですが、私と父の2人で旅行に行ったときは必ず、『ありがとうね、できれば今度はお母さんとも旅行に行ってほしいんだ』と言っていましたから。父が母に最後まで感謝の言葉を伝えなかったのを、私は残念に思っていますが、私自身、親だから話さなくても伝わる、親だからぞんざいに扱ってもいい、と思っていたところがありました。でもそれは大間違いですね」

西村は自身の娘には、徹底的に言葉で伝えるようにしているという。
「娘が成長して、より一層母の気持ちがわかるようになりました。私も母のようにズボラに過ごしてしまうことがありますし、母が言った通り、娘から『お母さんのようにはなりたくない』と言われています(笑い)。運命に逆らえなかったというか、因果応報ですね」

綾子さんも省吾さんの死後、思うところがあったのか、西村さんと会って別れるときは、必ず手紙を置いていくようになったという。

「母はあまり自分のことは語りません。手紙に書いてあるのは『ありがとう』という感謝の言葉ばかり。いつも穏やかで怒っているところを見たことがない母のことは尊敬しますが、本音はどうなんだろうと思ってしまうときもあります。まだまだ謎の多い母なので、これからも会話を重ね、言葉を尽くして絆を作るしかないと思っています」

いまは綾子さんとの会話が楽しく、これまでの時間を取り戻すように、つい長電話をしてしまうと、最後は穏やかな笑顔を見せてくれた。

 

◆タレント・西村知美
1970年、山口県宇部市生まれ。1984年、アイドル雑誌『Momoco』(学習研究社)内の企画「モモコクラブ」に姉が写真を応募し、桃組出席番号922番として掲載される。翌年、同誌主催の『第1回ミス・モモコクラブ』でグランプリを受賞。1986年3月に映画『ドン松五郎の生活』(東宝東和)に主演し、主題歌『夢色のメッセージ』でアイドル歌手デビュー。同年、『わたし・ドリーミング』では、日本レコード大賞・新人賞を受賞。テレビドラマや映画に出演するほか、『さんまのスーパーからくりTV』(TBS系)など、多くのバラエティー番組にも出演。1997年に元タレントの西尾拓美さんと結婚し、32才で一女の母に。手話技能検定や家事検定、オセロ検定、認知症介助士など、58種もの資格を取得していることでも知られる。

取材・文/上村久留美

関連キーワード