
「世界一幸せ」と笑った母のように…
介護生活では、ひで子さんの感謝を忘れない態度にも救われたという。
「母は昔からよく、『ありがとうとごめんなさいが言えない人は人間失格』と言っていて、実際、私たちに何度も『ありがとう』と言ってくれました。
仕事で疲れたときには正直、介護を重荷に感じることもありました。でも、母からのお礼の言葉があると救われるんです。あるとき、『私は世界一幸せ』とまで言ってくれたことがありました。体を思うように動かせない不自由な毎日。苦痛のはずです。それなのに、笑顔でそんなことを言う。いまいる環境の中で幸せを見つける天才でしたね」
感謝にあふれた穏やかな介護の日々――ところが在宅介護5年目の2019年、ひで子さんは腰椎の圧迫骨折によって再び寝たきりに。これにより認知症がすすんでしまったのか、「がんばる」という言葉を口にしなくなった。新田は、食が細くなり、単語しか発せなくなったひで子さんに“命の限界”を感じ始めたという。
「介護が長くなると、“こうした生活がいつまで続くのか”とつらくなるといいますが、私には、“母はもうこの先長くない”と感じたときの方がつらかったですね」
そして2021年3月、ひで子さんは92才でこの世を去った。
「父が急逝したとき、私は反抗期で父とあまり会話もしていなかったんです。そのときの後悔もあって、母には親孝行しようと思っていました。100人いれば100通りの介護があって、振り返れば私にもいろいろ問題点はあったと思うのですが、自分のした介護に悔いはないと思っています」
とはいえ、寂しさはぬぐえないという。
「介護に関する後悔や、母を失った悲しみは乗り越えましたが、寂しさはどうしても埋められません。新たまねぎが出回る季節になると、母が好きだったなあと思い、酢の物をみると、嚥下機能の衰えた母に細かく切って食べさせたなぁ、などと思い出します」
自分で作るいなり寿司や五目寿司の味にも母は生きている――ときにはそれがなんとも切ない……。しかし、母の見事な生き方は自分も受け継ぎたい、と言う。
「いつか自分が介護をされるようになったら、母のように明るく感謝を伝えられる人でありたいですね」
そう言って新田は笑顔を見せた。
◆タレント・新田恵利
1968年、埼玉県生まれ。1985年、バラエティー番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)のアシスタントとして、アイドルグループ「おニャン子クラブ」が結成され、その立ち上げメンバーとなる。デビュー曲『セーラー服を脱がさないで』ではフロントメンバーに選ばれるなど人気を誇る。1986年1月1日には、シングル『冬のオペラグラス』でソロデビュー。オリコン初登場1位となり、30万枚以上の売り上げを記録するが、9月に「おニャン子クラブ」を卒業。以後、タレント、女優、エッセイストとして活躍。1997年に結婚。現在は介護の経験をもとに講演などを行っており、2023年には淑徳大学総合福祉学部の客員教授に就任。著書に『悔いなし介護』(主婦の友社)。https://www.eri-nitta.com/
取材・文/上村久留美